掲載日 07−11−5
投稿・古谷 実
キ エ フ
9月下旬から10月はじめまで、サンクトペテルブルグ−キエフ−ヤルタをめぐり、モスクワをちょいと覗いて帰ってきた。北緯60度のサンクトペテルブルグは秋たけなわ、50度のキエフは初秋、そして黒海に面したヤルタはまだ夏のなごりを残していた。サンクトペテルブルグには年間5万人の日本人が訪れるという。しかし、1987年4月のチェルノブイリ原子炉事故のあと、ウクライナへのツアーは途絶え、キエフ−ヤルタは20年ぶりの再開だとJTBはいっていた。したがって、この2つの街で日本人に出会うことはなく、外国へ行ったの思いを濃くした。ヤルタはチエホフが晩年療養を兼ねて住んだところであり、ここですぐれた短編「犬を連れた奥さん」などを書いた。彼が住んでいた家はチエホフの博物館となっている。博物館を覗き「犬を連れた奥さん」が歩いた海岸を歩いてみたいという、他愛のない目的でツアーに加ったのだが、通過点のキエフの街歩きが思いもかけぬ強い印象を残した。
サンクトペテルブルグ
ロシアからウクライナへ秋の旅
ヤ ル タ
ネバ河を眺め、ネフスキー大通りを歩き、ドフトエフスキーの足跡をたどりたいというわが奥様の願いに沿って今回の旅が始まった。ネバ河は想像していた何倍もの河幅があり、ネフスキー大通りも初めからこんな広い道だったの、と首をひねりながら端から端まで5キロ近くを歩いた。探し訪ねたドフトエフスキー博物館の入口を入ると、手塚治虫のマンガ「罪と罰」が展示されていたのにびっくり。
夏の宮殿サムソンの大噴水は水を20mも吹き上げている。
血の上の教会のモザイクが見事だった。案内役のウラジミールはとても博学で、日本語も達者だった。
モスクワの日本大使館で永年公使をしていた従弟は、サンクトペテルブルグは西欧であり、モスクワこそロシヤそのものであって面白いというのだが。
赤の広場の端にある聖ワシーリー寺院。
寺院の前で仕事を始めようとしている作業員たち。
クレムリンの総主教宮殿には、金のタマネギが林立していた。
レーニン廟の前で青年サッカー・チームが記念撮影。
プーチンの大統領府前を行く観光客。プーチンはお出かけの様子で旗は揚がっていなかった。
サンクトペテルブルグからアエロフロートの老朽機で2時間南下した。キエフの飛行場にはボーイングの新しい飛行機がたくさん駐機している。必ずしも経済的に豊かとは見えないのだが、この国には元気があるように感じた。
アンドレー寺院の中を行く尼さんふうの美しい女性が、ケイタイでお話中。
丘の上にある国立キエフ大学
公園のベンチでオシャベリ。
目抜きのソフィア寺院前広場は、翌日の議会議員選挙のためのビラでいっぱい。
美人のティモシェンコ派が翌日の投票で過半数を制したのだが。
ムソログスキー「展覧会の絵」のなかに出てくるキエフの大門は、目下補修中であった。
子どもを遊ばせるお母さんたち。
この日は大安吉日だったのかな、あちこちの教会で友人に囲まれたお嫁さんの姿があった。
ウクライナのカラスはなぜ白い?
キエフからさらに南下してクリミヤ半島の先端、黒海の波に洗われるヤルタにやってきた。ここは、昔も今もリゾート。泊まったホテルは、エレベータで下った海岸に専用ビーチを備えている。1945年2月、米英ソの巨頭会談が開かれて、樺太、千島を日本から取り上げ、ドイツは連合国の分割統治を決めるなど、第二次大戦後の冷戦構造のタネが播かれたヤルタ協定でも有名。
リヴァーディア宮殿。ヤルタ協定の舞台である。ルーズヴェルト、チャーチル、スターリンが座った形を今に残し、ルーズヴェルトのため特設した電話が机にのった書斎があった。眼前に黒海。
街の上空では、ひっきりなしにカモメの鳴き声。
リヴァーディア宮殿の庭で。この道祖神みたいな石像はなに?
「燕の巣」と呼ばれるレストランでお昼を食べた。イタメシ屋だった。
北緯45度でも黒海の水は暖かく、9月末まで海水浴シーズンだという。
チエホフが住んでいた家がチエホフの博物館となっていて、ガイドのターニャが詳しく案内してくれた。この家でチエホフは園芸にも精をだし、没後100年を経て、大きな柳や竹などが鬱そうとした庭園になっている。
チエホフ像